創業の精神

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【年表】

【社会の出来事】

1882年
(明治15年)

Glicoの創業者 江崎利一は、佐賀県の蓮池村(現:佐賀市蓮池町)に生まれる。父の清七は1880年より薬種業を営んでいたが、なかなかうまくいかず暮らしも貧しかった。

日本に内閣制度が発足。
(明治18年)

1897年
(明治30年)

小学校を卒業。成績は一番良かった。教科書が買えなかったので友達から教科書を借りて4,5日分ごとにノートに写していたが、それが自然な予習となり勉強に役立った。中学校には進まず、商人としてのスタートを切ったこの頃、真の商道精神を利一にたたきこんだ恩師と出会っている。

京都大学創立
(明治30年)

1906年
(明治39年)

結婚し、本業の薬種業に専念する。販売・宣伝広告・薬業について独学に励んだ。当時の専門誌「商業界」を佐賀市内の大坪書店から購読していたが、利一のほかに注文していたのは、丸木屋百貨店の支配人だけだった。

タイタニック号が沈没。
(明治45年)

1907年
(明治40年)

蓮池村にてコレラが発生。32人が一斉に感染。3人が死亡という大事件。当時、医者が少なく応援の医者が来るまでの間、誰も患者の世話をできるものがおらず、村長からの「あんたしかおらん」と頼まれる。一歩間違えば死を意味する事態だが、利一は戦地で倒れた仲間の兵士たち思い出し、引き受けた。クタクタになるまで必死に看病し、感染して村のために死ぬことがあっても、それが運命だと受け入れたという。そのおかげか、患者は皆回復した。

東北大学に3名の女性が入学、国立大学初の女子学生に。
(大正2年)

1915年
(大正4年)

時代を先読みし、ワインのビン詰め販売に参入。大当たりしたこの商売で、九州のワイン販売でトップとなる。

富山県で米騒動がおこる。
(大正7年)

1919年
(大正8年)

利一は、たまたま通りがかった牡蠣の干し身を作っている小屋で牡蠣の煮汁が廃棄されているのを見て、その煮汁にグリコーゲンが含まれているのではないかと、ひらめいた。煮汁をわけてもらい、九州大学で分析してもらったところ、多量のグリコーゲンが含まれていることが分かった。これが「栄養菓子グリコ」が作られるきっかけとなる。

その後、グリコーゲンの事業化を真剣に考える日々が続いた。そんな折、利一の長男がチフスにかかり、医者もサジを投げるくらいに衰弱し、胃腸が萎縮して食欲もなくなった。その様子に、利一は医者に相談しながら、グリコーゲンのエキスを長男に与えてみたところ、程なくして回復に至った。この事があって、グリコーゲンの事業化への想いより強くなっていった。

富山県で米騒動がおこる。
(大正7年)

1920年
(大正9年)

グリコーゲンの入った栄養菓子を「グリコ」として販売することに決める。そして、世界で初めてのハート型のキャラメルを実現するまでに、半年を要し、ついに「栄養菓子グリコ」は完成した。

慶應義塾大学・早稲田大学、大学令により設立認可。
(大正9年)

1921年
(大正10年)

41歳の春。夢であった大阪での商売を実現するべく、家族全員で上阪する。一足先に大阪に出していた弟の清六が、ワイン販売の拠点としていた所をそのままグリコの最初の工場とした。グリコの販売を開始。

日本でメートル法が公布。
(大正10年)

1922年
(大正11年)

一流の販売店に陳列すれば、一流の商品とみられると、当時、大阪で伝統のある三越に通いつめ、無名の商品だったグリコを置いてもらうことに成功。それを機に、大阪市内の菓子店の店頭にもグリコが並ぶようになる。

江崎グリコ設立。
(大正11年)

1925年
(大正13年)

3年目にして初の黒字化。グリコは徐々に売れていった。

普通選挙法公布(25歳以上の男子に選挙権)。
(大正13年)

1927年
(昭和2年)

グリコへのオモチャの封入が始まる。「食べる」と「遊ぶ」は、子供の二大天職であり、これを一箱で満足できれば子供にとって大きな魅力になるということと、グリコで健康を増進させ、オモチャで知識と情操の向上ができれば、事業即奉仕の精神につながると考えてのことだった。

岩波文庫創刊(漱石「こゝろ」他23点)。
(昭和2年)

1931年
(昭和6年)

日本初の映画付きグリコ自動販売機をデパートに置くなど、戦略的に東京進出を始める。大阪では、現在の本社所在地、大阪市西淀川区歌島に大阪工場新設。

〜戦中・戦後へ続く〜 Coming soon…

満州国が建国宣言。
(昭和7年)